2023年に映画館でみた映像作品ベスト10

2023年はベスト10を出せる程度には映画館に行った。シネフィル的なものにせよオタク的なものにせよある種の義務感で見る映画を最小限に抑え、素直に関心の持てるものを優先したことが功を奏した。アニメを中心に見てよかったと感じた作品は多く、映画館との関係をいくらか取り戻した一年だったかもしれない。せっかくなので良かったものをまとめておくことにしたが、今や特定の映像作品が「映画」なのか判別することはほとんど無意味に感じられたため、今回は「映画館でみた」何かを対象とした。ここのところ映画館と「映画」の結びつきは弱まっており、映画館で何かを見るという体験は再定義されつつあるように思う。このランキングもおそらくそういった状況を反映している。かなり雑多な並びに見えるが、大筋では①画面全体の運動の面白さと②作品全体の構造的な強度が基準になっているのではないかと、振り返ってみて思う。

1位:『名探偵コナン 黒鉄の魚影』(立川譲監督、2023)

ここ数年のコナン映画は、大倉崇裕脚本によるラブコメ寄り路線と、櫻井武晴脚本による徹底した活劇路線を交互に展開してきた。『ゼロの執行人』(2018)、『緋色の弾丸』(2021)を経て、この活劇路線の一つの到達点となったのが『黒鉄の魚影』である。

おおよそ『ベイカー街の亡霊』(2002)までの初期コナン映画を彷彿させるハリウッド的なアクションへの傾倒は、明らかに破壊されるべきものとして設計された巨大施設の登場によって始まり、その崩壊によるスペクタクルへの期待は決して裏切られることがない。初期のコナン映画では前景化していなかった多くのサブキャラクターたちは、誰もがそのキャラにふさわしい行動をとることで物語をドライブし続けていく(「兄貴(ジン)」を隠し出入口から迎えるなどという失礼なことはできない、という理由で潜水艦を浮上させ敵に自らの位置を知らせてしまうウォッカのウォッカぶりたるや!)。冒頭で登場する阿笠博士の発明は必ずやクライマックスで活躍するに違いなく、対人格闘における蘭の異様な強さは「蘭だから」というだけで十分に説得的である。この力業は、名探偵コナンという長寿シリーズの積み重ねなしにはありえない。そしてこれらすべては、ただ壮大なアクションとスペクタクルを実現するために配置されている。こうした要素が圧縮して詰め込まれることで、本作では、起こりうることは全て起こり、最後には起こりえないことまで起こるだろう。

それにしても、八丈島近海に現れた潜水艦を赤井(=アメリカ)が提供する特殊な兵器によって秘密裏に撃沈するなどという超政治的な展開が実現するとは思わなかった。直前の安室と赤井の発言は、かなりはっきりと日米同盟をほのめかしていた(ように記憶している)。こうなると二人の関係自体、日本と米国の関係の隠喩に思えて仕方がない。とすれば、『緋色の弾丸』『黒鉄の魚影』で最後に重要な役割をさらっていった赤井の活躍は、『ゼロの執行人』における安室の言動がナショナリスティックなものとして批判を受けたことへのカウンターとして捉えるべきかもしれない。いずれにせよ、公安の安室を英雄化しているという理由でコナン映画をナショナリスティックなコンテンツだと考えるのはあまりにも一面的だ。アメリカで厳しい世論にさらされ苦しんだ日系人がFBIを逆恨みし、「ジャパニーズブレット」と呼ばれるリニアモーターカーを暴走させてオリンピック(をモデルにしたスポーツ大会)のスタジアムを粉砕するという『緋色の弾丸』のプロットを考えても、ことはそう単純ではない。少なくとも近年のコナン映画は、日米の関係についてそれなりに複雑な態度を示している。

『黒鉄の魚影』のラストについてもう一つだけ付け加えるならば、今や林原めぐみを綾波レイ的憂鬱から解放する役割をコナンが引き受けていることも、どこか感動的である。あらゆる文脈を動員することで実現された恐るべき密度の荒唐無稽なスペクタクルには、新たな「映画」への可能性が確かに刻まれている。

2位:『ケイコ 目を澄ませて』(三宅唱監督、2022)

公開は2022年の12月だったようだが、年初に見た。2023年最初の映画がこの作品だったことは僥倖だった。とにかくロケーションが全てを物語っている。外ロケの中心となったのは北千住のあたりかもう少し下流の荒川沿いではないかと思うが、このあたりは基本的に荒川と首都高が並行し、いくつかの鉄道がこれに直交して川を渡るように走っている。川と鉄道路線と高速道路が立体的に交差する景観は、ある種の境界的な場として現れつつ、同時にどこか画面の外へと想像力を誘うようなイメージとなっている。

映画は序盤から、河原でトレーニングを行うケイコの姿と共にこれらの交通の流れを映し続ける。一つの画面やシークエンスのなかに異なるリズムの運動が同居しているだけでもなぜか感動的なのだが、この感覚は、異なるリズムを持った者同士がぶつかりあうボクシングという主題へと展開していくだろう。極めつけは、病院帰りの会長とその妻が歩道橋を行く中盤のシーンである。背景にはカーブした高速道路が見え、手前の歩道橋を右から左へと進む二人の足取りは重い。突然、画面の最前を左から右へと電車が走り抜ける。しばし車体に遮られて見えなくなっていた二人の姿が再び現れた瞬間、明らかになるのはその歩みの遅さである。電車が走り抜けるあいだ、人間はこれだけしか進むことができない。それでも映画は、それぞれのペースで歩む者たちの姿を映し続けるだろう。

ラストシーン、いつもの河原で偶然に対戦相手と出会ったケイコは、挨拶を終えて立ち去った相手とは別の道を反対の方向へと走り去る。この本編最後のカットにおいて、ケイコと同じ道を行く人々の姿は逆光によってシルエットと化しており、それぞれの進み方の違いが強く印象に残る。そしてダメ押しのように、人や車あるいは電車や川の流れを捉えたショットを背景にエンドクレジットが示され、映画は幕を閉じる(ラストカットの船と鳥はダメ押しのダメ押しである)。速さの異なるものがそれぞれに画面を横切る場としてのスクリーン。映画がその歴史において絶えず求め続けてきた「運動」とは、きっとこのようなイメージだったに違いない。

3位:『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(古賀豪監督、2023)

冒頭、現在の廃墟となった村を記者が訪れるシーンではとても不安になった。脚本も演出もあまりにもパッとしなかったからだ。舞台が昭和31年に移った瞬間、不安は消し飛んだ。ひとまず物語はおなじみの怪奇ミステリ的な文法に沿って進むのだが、およそ子供向けとは思えない切り詰められたセリフで複雑な設定が語られる。出世のためだけに行動する水木の主人公らしからぬキャラクター性も面白い。そして何より、村に到着するあたりから絵コンテのキレが素晴らしい。大胆な引きや不安定な視点位置など、どこか実写映画を思わせるカットが多用され、村の空間的な不気味さが効果的に演出されている。そして妖怪の存在が明らかになって以降、映画は明らかに加速し始める(観客は皆これが妖怪の映画であることを知っているはずなのだが、その存在をほのめかすに留め、きっちり焦らすあたりも良い)。

「作画」としてもかなり見ごたえがある裏鬼道との戦い以降、物語と映像が結託してクライマックスまで一気に駆け抜ける後半は、文句の付け所が無い。特に最終決戦の舞台は映像的アイデアに溢れている。しかしもちろん、何より注目すべきは、日本の「戦後」を正面から問い直すような物語である。本作終盤の展開は、この国の「戦後」が、「戦前・戦中」のある側面を温存しながら同時に忘却することによって成立してきたことを明らかにしている。そして「戦前・戦中」に葬られた者たちの復讐によってその記憶をよみがえらせ、ありえたかもしれない別の「戦後」の可能性を示すことが、本作の終着点である(これは『ゴジラ-1.0』とは全く逆の理路となっている)。この国の20世紀は確かに敗戦によって大きな政治的転換を経験したが、しかし「高度な科学技術によって国際社会の地位を得る」というイメージは一貫して大きな役割を果たし続けてきたように思う。もちろんこのような理想自体が問題だとは言えないが、明らかに戦争と結びついた理念が形を変えて戦後に受け継がれた可能性は意識されるべきだろう(このような連続性の問題は、私の個人的な研究テーマでもある)。『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』は、水木しげるを媒介としてこのような批判的「戦後」観を構築したうえで、それをミステリ仕立ての復讐劇へと昇華することに成功している。これは(延命を図る)古きものに対する(死を余儀なくされた)古きものの復讐であり、したがって最後にはほとんど誰もが死ぬほかない。だからこそ鬼太郎というキャラクターは、この過酷な復讐劇のなかで新たに生みだされた希望として、再定義されることになるだろう。

4位:『王国(あるいはその家について)』(草野なつか監督、2018)

愛知芸術文化センター・愛知県美術館の企画として2017年に製作された64分の映像作品を150分に再編集したもの。これまでかなり限定的な形でしか公開されていなかったようだが、2023年12月にポレポレ東中野で劇場公開するということで年末ぎりぎりに見に行った。これ以降、全国各地で少しずつ上映が行われているようだ。

物語は、主人公が幼馴染の娘を川に落とすという行為にいたるまでの過程を描くサスペンスとなっている。雰囲気としては『ゆれる』(西川美和監督、2006)が近いのではないかと思う。とはいえ、本作のポイントがその特殊な演出にあることは言うまでもない。この作品、映画として完成した形で撮られたシーンは非常に限られており、150分の大半が役者による脚本の読み合わせ/リハーサルの様子を撮影した映像によって構成されている。しかも、リハーサルの様子を通しで見るといった親切な作りにはなっていない。観客は、物語を行きつ戻りつしながら、異なるテイクで同じシーンを何度も何度も繰り返し見ることになる。

このような演出はひとまず、俳優の身体に「演技」が発生する瞬間をとらえるといったコンセプトのためのものだと理解されるだろう。たしかに、セリフに込められたニュアンスや視線の運び方といった「演技」はテイクを重ねるごとに微妙に変化していくし、その変化を辿って気づくこともある。だが、この映画の真の恐ろしさはおそらくまた別のところにある。一観客として最も強く感じたのは、テイク間の細かな差の面白さよりも、同じやり取りが別のしかたで何度も繰り返されるということのシンプルな強度によって、謎めいた物語が魔術的な説得力を持ってしまうことの異様さだった。物語の中でも(それこそ繰り返し)語られる「密度」の経験を直接的に与えることで、illusion(幻影)ともimmersion(没入)とも異なる映像体験をもたらすことが、本作の挑戦の核心ではないかと思う。

そう考えるなら、高橋知由による脚本がそもそもこれだけの繰り返しに耐えるものであることの恐ろしさにも、やはり目を向けなければならない。作中でおそらく最も多く繰り返された食卓での会話は、繰り返されるほどに作品全体の構造を先取りしていたことが分かってくる。同時に、かつての同級生のあだ名が「グロッケン叩きのマッキー」だったか「マッキー・ザ・グロッケン」だったか、というどこかナンセンスなやり取りは奇妙な中毒性を帯びはじめ、私たちはその会話の繰り返しを望みさえしはじめるだろう。劇映画として全くの掟破りにも思える演出は、その執拗さと脚本の強度によって、どこか危うげで魔術的な映像体験を生み出している。

5位:『暴太郎戦隊ドンブラザーズVSゼンカイジャー』(渡辺勝也監督、2023)

「スーパー戦隊VSシリーズ」最新作。幼少期以来、長らく戦隊ものからは遠ざかっていたのだが、2022年度は本当に『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』に救われた。本作についてはテレビシリーズ込みの評価にならざるをえない。テレビシリーズ全50話は、主人公タロウが、ヒーローとしてはあまりにも個人的な感情で勝手気ままに行動する「お供」たちとの縁を通して、欲に振り回される人間の愚かさと向き合い、これを理性によって断罪するのではなく共に歩んでいくことを受け入れる長い道のりであった。この当たり前なようで困難な主題に、噓のように自由な映像表現で取り組み続けた『ドンブラ』は、2022年度で最も感動的な映像作品だったと言っても過言ではない。

「VS」もまた、掛け値なしに『ドンブラ』となっている。放送の都合で一度終わらせた程度で本当に物語が終わるわけがないだろうと言わんばかりの堂々とした態度。謎を謎のまま放置し、大きな引きになってしまう展開を新たにぶち込む度量。何でもありに見えつつ、最後にはすべてのキャラクターが自分の道を行き、それぞれに戦い続けることの説得力。そして誰よりもヒーローだったソノイ。勝手気ままなキャラクターたちは、はちゃめちゃな世界をそれでも信じる術を教えてくれる、新時代のヒーロー像を体現し続けている。

6位:『屋根裏のラジャー』(百瀬義行監督、2023)

評判的にも興行的にもあまり奮っていないようだったが、どういうことなのか。少なくとも、キャラクターと扉の関係の演出だけでこれだけのバリエーションを見せてくれる作品を映画として評価できないことはないだろうと思う。さしあたり、「イマジナリ(ーフレンド)」と主人公アマンダとの関係といった「お話」の部分はあまり重要ではない。本作は、「イマジナリ」という存在を想像力の問題へとスライドさせることで、明らかにアニメーション制作についての映画になっている。

本作の構造は、イメージを作り出しそれを支配するために想像力を行使することを批判し、自律的なイメージを生み出すものとして想像力を捉えようとしている。これをアニメーション制作の問題として考えるなら、ここで批判の対象となっているのは、明らかに近年の宮崎駿的な「作家」イメージである。念のため断っておけば、ここでは実際の宮崎がどのような作家であるかは中心的な問題ではない。本作が暗に批判しているのは、いくらかの「狂気」をはらんだ天才的かつ神秘的存在として「作家」をイメージし、その創造力の成果として「作品」を捉える、通俗的「作家」「作品」像である。自らの想像力を維持するために若者の想像力を搾取し、どこか虚ろな美少女をその「作品」として従える敵役のミスター・バンティングとは、このような「作家」のアレゴリーに他ならない。たしかにバンティングのような態度は強度のあるイメージを生み出しうる(彼が従える少女のデザインには危うい魅力がある)のだが、その強度はどこか寂しく虚しい。こうした単体のイメージの強さを求めるのではなく、次々に湧き出る(ある意味では中途半端で未完成の)イメージが生み出す動きによって「自由」を取り戻すことが、これからのアニメ制作の道なのだと、この映画は考えているようだ。実際、気ままなイメージの流れは、いくつかの重要なシークエンスで軽やかな動きの印象をもたらすことに成功している。

終盤のバンティングと主人公たちによる水上のチェイスシーンはその1つである。ここで、明らかに宮崎的な鳥のイメージと化した少女に乗ったバンティングに追われるアマンダは、こちらの船は飛べないのかとラジャーに問われ、自分たちは飛べないけど大丈夫なのだと答える。直後、進行方向に大きな渦が発生し、全ては水中へと落下していく。想像力によって飛ばなければならないという前提を逃れ、落下という別の運動へと向かうことが、このシークエンスを予想外のものにしている。この意味で本作は、宮崎駿がその恐るべき傑作『風立ちぬ』(2013)においてたどり着いてしまった隘路を、別のしかたで乗り越えようとしているのかもしれない。イメージの可能性は、飛ばなくても良いという自由の方へと託されている。もちろん、人の手によるイメージには結局のところ本当の「自由」などありえないと批判することは容易い。それでも、画面を「適当な」イメージで満たすことで、「人間」や「生命」を追求することとは別の「運動」的なアニメーションを目指した本作の映像的試みは、十分に注目されるべきものである。

7位:『SAND LAND』(横嶋俊久監督、2023)

2022年公開の『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』といい、最近の鳥山明が関わるコンテンツにはどこか吹っ切れたような爽やかさがある(『スーパーヒーロー』についてはぜひ以前書いた記事を)。最新のCG技術によって、鳥山作品が本来持っていた「軽さ」と「速さ」の美学が取り戻されつつあるように思う。

映画前半の見せ場となった砂漠に住む巨大生物・ゲジ龍とのチェイスシーン。追い詰められた主人公たちは、咄嗟に運転する車から荷台を切り離す。彼らは荷物を捨てて身軽になることで加速に成功し、間一髪難を逃れるのだ。速さを求めるならば、軽くなければならない。小さな悟空が飛び回る初期『ドラゴンボール』の楽しさは、いつもこの「軽さ」が生む「速さ」のイメージにあった。小さくて「ワルい」悪魔ベルゼブブを主人公に据えた『SAND LAND』は、現代的な映像技術によって、あの楽しさを甦らせることに成功している。

2024年秋からの展開が予定されている新シリーズ『ドラゴンボールDAIMA』でも、悟空たちは何らかの理由で小さくなってしまうようだ。もはや何も気にかけるべきことのないレジェンドとなった鳥山が、その軽やかなギャグとアクションによって、日本のポップカルチャーに再び新たな風を吹き込むときが来ているのかもしれない。

(2024/3/9追記:本項目はおよそ2024/1/12までに書かれた。このたび鳥山明の訃報を受け、本記事を公開することにした。強調しておきたいことは、ここ数年の鳥山は決して過去形で語られるべきクリエイターではなかったし、今もなおそうではないということだ。ここで記したように、鳥山作品をベースとした近年のアニメプロジェクトはいずれも、かつての鳥山の仕事の美点を甦らせると同時に日本アニメを新たなステージへと進めようとする意欲的なものである。クリエイターとしての鳥山は、マンガ的な3DCGという新たな技術と共に、再びの黄金期を迎えようとしていた。そして、アニメ制作が常に共同的なものである以上、この歩みが止められなければならない理由は何もない。さしあたって我々がすべきなのは、『SAND LAND: THE SERIES』と『ドラゴンボールDAIMA』を見届け、これからの「鳥山明」について考えることである。)

8位:『ゴンドラ』(ファイト・ヘルマー監督、2023)

東京国際映画祭で見たいくつかの作品のなかで、最もアイデアに溢れて痛快だった映画。山間を繋ぐロープウェイで働く2人の女性乗組員同士の関係を描くのだが、両者のコミュニケーションの大半は、それぞれの乗るゴンドラがロープウェイの中間地点ですれ違う瞬間に交わされる。限定的なシチュエーションにおいてどのようなやりとりが可能なのか、考えうる限りのバリエーションが展開され、飽きさせない。セリフを一切使わない独特のスタイルも、ミニマルな構造への注目を促している。

という説明だと、静かで穏やかな映画を想像するかもしれない。実際、序盤はそのような印象を受けるが、そのままでは終わらないのも本作の面白いところだ。ミニマリズムの実験的思考はやがて当初のリアリティラインを軽々と逸脱し、どこか寓話的な展開へと横滑りしていく。思わず拍手したくなる痛快なラストまで、目が離せない。

9位:『ライオン少年』(ソン・ハイポン監督、2021)

中国で制作されたアニメ映画。見どころはやはり、明らかに国際的な映画市場で戦える3DCGアニメーションのスタイルと技術だろう。単にクオリティが高いというだけでなく、ディズニーなどとは異なる独自のアートスタイルが完全に確立されている。王道スポ根ものの構造をとりながら、その内容が獅子舞競技というのがとにかく面白い。

そもそも競技としての獅子舞自体が日本では馴染みがなく新鮮なのだが、特に最後のテレビ中継されるらしい全国大会は何だか妙にバラエティ的で可笑しい。さすがにこんな形式の大会は実在しないのではないかと思うが、競技大会自体は確かにあるようだ。ストーリー上の起伏がこれでもかと詰め込まれ、最後にはきちんと奇跡が起こる、お手本のようなエンタメ映画である。

10位:『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(アーロン・ホーバス/マイケル・イェレニック監督、2023)

ある時期以降、マリオが登場する(とりわけプラットフォーム系の)ビデオゲームは、マップデザインの巧妙さを楽しむコンテンツとなってきた。巧みに配置された敵や仕掛けのなかをデザイナーの意図に沿って進む(あるいは進まされてしまう)ことの面白さは、『スーパーマリオメーカー』シリーズの登場以降、より明確に意識されるようになったはずだ(いわゆる「全自動」コースはその極端な現れだが、むしろ本家が行ってきたような密かな誘導の方がより巧妙である)。映画『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は、巧みにデザインされたシークエンスの体験という点で、ゲームのマリオを見事に再現している。

全体としては王道のハリウッド的なアクション映画と言ってよく、それ自体は決して特殊なものではない。本作のポイントは、ドンキーコングとの格闘やマリオカート的なチェイスなど大きく異なるムードのシーンが並べられていること、そして、その異質さにもかかわらずシーン同士が驚くほどスムーズに繋がれていることにある。この過剰なまでの滑らかさこそが、何よりもマリオ的な体験を生み出している。

全てがあまりにも適切に配置されていることがかえって面白みを生み出すというあたりは、いかにも現代的な映像体験に思われる。こうも「プレイできないゲーム」の面白さを見せつけられると、ドラマを重視する「映画」の時代は本当に終わりつつあるように思えてならない(もちろん、こういった感性を初期映画的な「アトラクション」性の再評価として捉えることもできるのだろう)。いずれにせよ、ゲーム産業と「ゲームのような映画」の躍進を前にして、「(映画のような)映画」の行く末が問われていることは間違いない。