歩く、走る、石を投げる:『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』

『ククルス・ドアンの島』を見た。1979年に放送された初代『機動戦士ガンダム』の1エピソードを翻案したアニメ映画だ。監督は安彦良和で、「THE ORIGIN」の流れにある作品だと言える。

元となった『ガンダム』第15話は、本筋とはほとんど関係のない、かなり奇妙なエピソードだ。シリーズ全体のアニメーションディレクターだった安彦が作画監督を務めていないこともあり、しばしば作画崩壊回としても語られるが、ストーリーなどの面でも決して出来がいいとは思えない。ドアンによって島のどこかに隠された戦闘機(コア・ファイター)を探すアムロの冗長な描写や、ドアンを追うジオン軍の動機の弱さ、終盤で突然背景設定を語るドアンの説明的なセリフなど、首をかしげるポイントは多い。もちろん、長丁場が基本だった当時のTVアニメではこういった回は珍しくないので、あまり目くじらを立てても仕方がないのだが、1981年の劇場版総集編や安彦のマンガ「THE ORIGIN」で割愛されたのもむべなるかな、といったエピソードだ。

というわけで、これを長編映画にするのはなかなか大変だろうし、きっと戦闘シーンを大幅に増やしてなんとかするのだろうと甘くみていたのだが、いい意味で当てが外れた。当然戦闘シーンは増えており、現代的で見ごたえのある映像になっていたのだが、それ以上に、ファースト版の要素の多くを残しつつ、設定の追加や描写の変更によって筋の通った映画に仕上げるという、その翻案の巧みさが印象的だった。そして何より、迫力あるバトルシーンとは別の方向にも、アニメーション表現の豊かさを見ることができるという点で、稀有な作品だったように思う。(ここからはネタバレを厭わないので注意してほしい。)

本作を支えていたのは、アニメーションには力がある、というシンプルな確信だったはずだ。コア・ファイターを求めて彷徨うアムロの描写は、ファースト版最大の難点だった。映画版は、探し物をコア・ファイターからガンダムに変えてこそいるものの、その地味で冗長な捜索活動自体はほとんどそのままである。にもかかわらず、この場面の印象が全く異なるのは、歩き方のアニメーションに対する並々ならぬこだわりゆえではないだろうか。映画では、ガンダムを求めて意気揚々と出発するアムロの気概も、徒労に終わった捜索から帰ってくるアムロの疲労も、徹底的に歩き方を通して描かれている。この細やかな表現だけで十分に画面が持つはずだ、という確信は、ファースト版の奇妙な構成を保ったまま、その冗長性を豊かなアニメーション表現へと反転させている。

このような歩きのアニメーションへのこだわりは、直接的には、総作画監督の田村篤をはじめとする作画スタッフに帰せられるべきものだろう。とはいえここに、監督を務めた安彦のアニメーターとしての資質が継承されていることも、確かなように思われる。ファースト版のシリーズを見れば明らかなことだが、安彦はまずもって歩きのアニメーターであり、走りのアニメーターであった。アニメーションの基本であり、それゆえに最も力量の問われる動作を、独自のスタイルで活き活きと描き続けた安彦の仕事に、ファーストガンダムの多くのエピソードが救われていたはずだ。『ククルス・ドアン』はこの仕事を正統に受け継いでいる。映画の終盤、子供たちとホワイトベースの面々が戦闘中のドアンの元へと駆けつけるとき、画面に現れる人物が誰一人として同じ走り方をしていないことに、キャラクターを動かすことへの真摯な態度を見てとらなければならない。

基本的な動作の表現へのこだわりは、バトルの終盤でドアンのザクが石を投げる場面にいたって、物語の主題へと結びつくことになる。武器を持たず石を投げるザクの姿は、ファースト版ではいささか滑稽な印象も与えかねないものだった。映画版は、この投石を、武器を失って劣勢となったドアンによる最後の抵抗として提示している。その身振りは、作品の序盤で描かれた子供たちによる投石の身振りと重ねられている。石を投げるという原始的な動作が抵抗の可能性として示されるとき、力なき者たちの戦いという主題が作品全体を貫くものとして浮かび上がってくるはずだ。ファースト版の設定が可能性として抱えながらも十分に展開することのなかった主題は、アニメーションの力によって見事に再生されている。

その他にも、巧みな翻案は随所に見られた。アムロがガンダムでドアンのザクを海に投げ込むという妙なラストも、サザンクロス隊の存在によって説得力を与えられている。かつての仲間である彼らが眠る海にザクを沈めることは、十分にジオン時代のドアンを葬る儀式となったはずだ。となれば、ミサイルが夜空にもたらした6つの輝きもまた、ドアンを含むサザンクロス隊の6人への鎮魂の光だったのだろう。このマ・クベのミサイルをめぐるサブプロットが、ジオン側の動機を明確化すると同時に、それ自体とても魅力的なエピソードとなっていることも見逃せない。作戦の失敗を受け入れるマ・クベの描写は、ガンダムでは珍しいほどに希望を感じさせるものだ。そしてこの希望は、まさしくドアンのエピソードにこそふさわしい。

分断と謀略の物語ではなく、連帯と抵抗の身振りを描くアニメーションであること。『ククルス・ドアンの島』がよみがえらせたのは、アニメーションへの信頼であり、ファーストガンダムが示していたはずのもう一つの顔ではなかっただろうか。