アニメーターが演出家になるとき:『ユリイカ』湯浅政明特集号の補足

こと商業的なアニメの世界において、アニメーターと演出家ではそれぞれに求められる素質が大きく異なるはずだ、ということは、もっと意識されてもいいように思う。もちろん、演出家はアニメーターの仕事をよく理解しているべきだし、アニメーターとしての実力を認められた人物が現場の指揮を執ることには、いろいろとメリットがあるだろう。それでも、優れたアニメーターであるために演出家としての経験が必要不可欠だということはないのだし、優れた演出家が誰しもアニメーターとしてキャリアを出発させているというわけでもない。このことは、高度な作画技術を武器に一貫したキャリアを歩み続けてきた井上俊之のようなアニメーターや、逆に制作進行の仕事から出発して21世紀の日本アニメを代表する作家となった長井龍雪のような演出家の存在を考えれば、納得できるはずだ。

一方、『ユリイカ』7月臨時増刊号で特集された湯浅政明というクリエイターは、アニメーターとしての評価と演出家としての評価が混在して語られてきた人物であるように思う。その作品をめぐっては、運動性や色彩といったアニメーションとしての映像表現がいつも注目を集め、その作風はしばしばアニメーターとしての初期の仕事と結びつけられてきた。むろんこのような見方には十分な説得力と意義があるのだが、しかし、ある時期以降の湯浅が主に監督という立場でアニメを作ってきたことも確かである。ユニークな作画を実現するアニメーターとして注目されはじめた90年代後半から、自ら監督を務めて多くの作品を送り出すようになった現在までのどこかで、湯浅はアニメーターから演出家の方へと向かい始めたに違いない。

その最大の転機の一つが、劇場版『クレヨンしんちゃん』における仕事ではないだろうか。『ユリイカ』の特集に収められた拙稿「世界をもっと面白がるために——『クレヨンしんちゃん 雲黒斎の野望』と設定デザイナーとしての湯浅政明」は、このような問題意識のもと書かれている。では、『クレヨンしんちゃん』はいかにして湯浅を演出の方へと導くことになったのか。これについては、ぜひ特集を読んで確かめてほしい。

(2022/8/6追記:本特集掲載の「サイエンスSARU年譜」について、出版元の青土社より改訂版が出ていますので、ご確認ください。